十牛図から見る日本人の個性とは(180723 NHK「100分で名著」河合隼雄スペシャル4 の感想)

全4回、分かりやすくて良い番組でした。
去年の宮沢賢治編を録画したまま見てないのですが、ちょっと見る気になりました。

今回のテーマは『私』とは何か、です。
河合隼雄は、日本人の個性を分析する中で仏教に辿り着きました。

 

 

牧牛図


十牛図のほうが一般的な呼び方でしょうか。
1人の若者が牛を見つけ、手なづけていく過程を描いて、禅の修行を表したものです。

私が初めて十牛図を知ったのは、森博嗣の「封印再度」と京極夏彦の「鉄鼠の檻」を読んだ時でした。しかしなんとなくしか覚えてません。読書したらやっぱりノートやブログに書かないと忘れてしまいますね、私の場合。


封印再度 WHO INSIDE S&M (講談社文庫)


文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)



牧牛図に出てくる若者と牛について、

若者=描き手の自我
牛=真の自己(意識も無意識も含んだ心の中心にあるもの)

を表していると河合は分析しました。


wikipediaよりパブリックドメイン十牛図画像をお借りしました。十牛図は複数描かれていますが、番組で使われたのと同じものです)

1、自我であるこの若者は、自分が探しているものが何であるか最初はよく分かっていません。

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2、しかし、牛の足跡を見て、自分は牛を探しているのだと気付き、

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3、それを見つけ、

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4、捕らえ、

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5、従え、

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6、ついには牛の背に揺られながら牛の赴くままに導かれていきます。

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ここで、自我と真の自己は一体になります。
この6つ目の図が一つの到達点ということになると河合は言います。
しかし、この先があるんです。

7、なんと、牛が消え、

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8、さらには若者も消えてしまうのです。

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河合はこれを「絶対無」の体験と解釈しました。

9、その後、全てが消えた場所には花が咲き、川のせせらぎが流れます。

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10、そして、消えた若者が老人とともに再登場するのです。

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ここでは、真の自己を「向かい合った」二人に分けて描いているのだと河合は言います。二人の間には、「あなたは誰か」「どこから来たのか」との問いが生まれます。そして、一枚目の絵に繋がり、無限のループを描いているのです。


牛が消えてしまうのはなぜか?


本当に自我と自己とが一体になってしまうと、自己が消えてしまいます。なぜかというと、自己というのは、目標として、対象としている限り見えてくるものだからです。

自己って何だろう、牛だと思って捕まえてみた。けれど、自己と一体になってみると、森羅万象が自己だ、という境地に達したのです。

8になると何も無くなります。「無」になります。
何もないけれど全ての元になるエネルギーなのです。
完全に一体になってすべてが溶け合ってしまいましたが、それがだんだん分節化してきて美しい世界となって現れてきます。

人間も同様に分節して老人と若者の姿になります。
真の自己を知っている人と、まだ知らない人。
その間で「私って何だろう」「真の自己って何だろう」という問いが出てきます。
そうすると、また1にヒューッと飛ばされていくのです。

悟りの境地みたいなところに到達するんだけど、また戻ってくる。
そこでまた出会い、問いが生まれます。無限の循環です。


震災と「無常」


震災の時にも「無」の考えが日本の文化として感じられたと河合俊雄さんは言います。

あの時は「無常」という言葉がすごく言われていました。「無」というのがベースにあると、本当に悲惨なことがあっても極限状況でも耐えていける。つらいことや苦しいことから回復していける。無=無常感みたいなものが根底にあるんだなというのが文化として感じられたそうです。

日本は昔から自然の猛威や病気による大量死が多くありました。そういうものなのだ、仕方がない、と天のせいにして、また宗教に支えられて耐えてきた歴史があります。近代以降は治水や医学の発達により大量死が少なくなりましたが、今回のような災害があると、やはり無常感によって人は支えられていると感じます。

ただし、東電のミスは仕方なくない。震災だけならまだ耐えられたが、原発問題によって日本人の心は怒りで揺さぶられ、心の整理がつきにくくなった、と私は思います。


自性(じしょう)とは


今昔物語より


ある村の人が、「明日、観音様がこの村の温泉に来る」という夢を見ました。すると翌日、夢で見たのと同じ容貌と服装をした武士が現れます。皆が武士を拝むと、武士は「一体どうなっているのか」と驚きます。僧が夢のことを武士に話すと、「自分は狩りで傷を負ったのでこの温泉に来たのだ」と言います。それでも皆がひたすら拝んでいると、武士は「自分はそうすると観音なのだ」と言って出家をして比叡山の僧になりました。


みんなが言うから自分は観音なのだと確信する武士。


西洋では、個性を自らの努力で形成しようとします。
今の自分に無いものや、自分とは対立するものを外から取り入れ、統合して豊かなものにしていくのが西洋的な「個性化」です。

日本の場合は、個性を形成するというよりも、もともと備わっているものを「発見していく」のだと河合は結論づけました。

そう分析するに至ったヒントは「華厳経」にあります。

華厳経
大乗仏教経典の一つ。…インドで伝えられてきた様々な経典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものであると推定されている。…上代日本へは、大陸より審祥が華厳宗を伝来し、東大寺で「探玄記」による「六十華厳」の講義を3年間に及び行なった。東大寺は今日まで華厳宗大本山である。
(Wikipediaより)


華厳経は「あらゆるものはつながり合い、そこに個々の区別はない」という教えを説いています。人間を含むあらゆるものに「自性」はないと言うのです。

要するに、「私」の本質や「私」の固有性などないことになります。
でも、現実世界は違いますよね。個々の違いがあります。

人は「自性」を持たなくてもさまざまな要素との関係性によって「私」を成立させているといいます。自分の中の、

・ある要素が有力に
・他の要素が無力に

なることで個性が生まれるのです。


非個人的な関係


禅僧の物語


2人の僧が旅に出て川に行き当たりました。船も橋もないので川へ入らなければなりません。美しい女性が向こう岸に渡れず困っていました。すると1人の僧がすぐに彼女を抱いて川を渡りました。しばらくして、もう1人の僧が口を開きました。「お前は僧としてあの若い女性を抱いてよかったのか、と俺は考え続けてきた。あの女性が助けを必要としていたのは明らかにしてもだ」もう1人の僧は答えました。「確かに俺はあの女を抱いて川を渡った。そして川を渡った後で彼女をそこに置いてきた。しかしお前はまだあの女を抱いているのか」と。


必要な時には全身全霊で向き合い、そのあとは一切執着しない。こうした関係を非個人的関係と呼び、河合はクライアントに対する姿勢の理想としました。

一生懸命その人のためにやるということは、どうしても個人的関係になりやすいです。例えば、先生と生徒の関係で熱血的に指導しようとすると、あまり良くない関係になることがあります。

河合先生も、大変なクライアントに会っているとふらふらになったそうです。それは、やはり個人的なレベルでなんとかしていたからで、非個人的な関係で接すると楽になったそうです。

この僧の姿から河合隼雄は風を連想し、ある作者不明の詩で表現しました。それが「1000の風」です。その後「千の風になって」という新たな訳が出て有名になりました。

風と言うのは触れることができるけれども執着することはありません。だから、河合隼雄自身も「風でありたい」と思ったのではないでしょうか。

 

感想


私は人の気持ちが分かりません。なので分かるためにしつこく聞いたりずっと考えたりします。普通の人に追いつきたいからです。執着といえるかもしれません。いかんな。

個人的な関係と非個人的な関係をどちらも適切に操れるようになりたいです。

華厳経の「ある要素が有力、他のある要素が無力になることによって個性が生まれる」という考え方は、つい人と比べがちな私にとっては楽になるものかも。みんな元が同じなら、羨みも劣等感もなくなるかもしれない。

「なぜぼくは存在するのか」をこどもの頃からずっと考えていた永井均さんの本を思い出しました。こちらは哲学の入門書です。

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス