昔話から日本の構造を読み解く(180716 NHK「100分で名著」河合隼雄スペシャル3 の感想)


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河合隼雄は、スイスでユング心理学を学び、日本で心理療法を始めました。
しかし、欧米の合理的な心理学が日本人の心の問題に応用できないことに気付きます。
そこで先生が注目したのが、日本の昔話や神話です。
古くから伝わる物語の中に、心の構造が映し出されていると考えたのです。

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「うぐいすの里」から分かる「日本人の人格の統合」

昔、ある山のふもとに1人の若い木こりが住んでいました。
ある日山に行くと、森の中に今まで見かけたこともない立派な館がありました。
木こりが玄関まで行くと、美しい女が出てきました。

女は木こりを信頼し、留守を頼んで外出しようとします。
その時、このつぎの座敷を覗いてくれるな、と言い残します。

しかし、木こりは禁を破って座敷へ入ります。
美しい調度が設えられた座敷は、花の香りに満ちていました。
木こりはそこで3つの卵を見つけ、手に取ると誤って割ってしまいます。

帰ってきた女性は、さめざめと泣きながら男に告げます。

「人間ほどあてにならぬものはない。あなたは私との約束を破ってしまいました。
あなたは私の3人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい。ほほほけきょ」
と言って鳴いて、その女は一羽のうぐいすになって飛んでいきました。

そして気がついて見ると立派な館はなく、木こりはただのかやの野原にぼんやり立っていました。


河合隼雄は西洋の似たような物語と比較することで、日本人の心の構造を分析します。
フランスの「青ひげ」という物語です。


青いひげを持つ男と結婚した女性が、「見るな」と言われた部屋を覗きます。
するとそこにはたくさんの死体があったのです。死体は青ひげの先妻たちでした。
女性も青ひげに殺されかけますが、兄に助けられ、その後別の男と結婚してハッピーエンドを迎えます。


まずは、結末が全然違うというところに注目してみます。

ユング心理学の中で、結婚というのは「人格の統合」を示すイメージとしてとても大事にされています。しかし、それをそのまま当てはめると、日本の物語では人格を統合せず完成に至らないということになっていまいます。

しかし、何も起こらなかったとはつまり、英語の表現
Nothing has happended
をそのまま借りて、「無」が生じたのだ、と言い換えられないでしょうか。

本来「無」は否定も肯定も超えた存在です。
それは、日常・非日常、男・女などの区別を超えて、一切をその中に包含してしまう円へ変貌します。
それは「無」であって「有」であると言えます。

木こりは村と森の間にいる人。
村=意識、森=無意識の世界と考えられます。
この物語は、その中間で出会って別れてしまい、統合というのは起こりません。
ではどうやって完結するのか。

女性が消え去る際の「あわれ」という感情によって物語は完成しています。

「あわれ」とは、完結に至る寸前における、プロセスの突然の停止によって引き起こされる美的感情です。悲しく立ち去ってゆくうぐいすの姿によって、我々の美意識は完成されるのです。

出会うんだけど、戻っていく。
その循環することこそ豊かなものなんだ、という考え方です。

「炭焼長者」から分かる「日本人の自我」

西洋の物語は男性が非常にアクティブで、心理学的には男が「自我」と言えます。
河合隼雄は日本の物語をひもとくうちに、女性の目で見ていくと日本人の「自我」が分かりやすいのではないか、と考えました。


「炭焼長者」

あるところに長者の娘がいました。
娘は、父親のすすめる別の長者の息子と結婚し、尽くしていました。

しかし、ある時妻が夫に麦の飯を差し出すと、
「米は食べるが、麦など食えぬ」と夫が茶碗を蹴飛ばしました。
女は「私はとてもここで暮らしをすることはできません」
と言って、長者の妻という身分を捨て、家を出ていきます。

門を出ると女は、その家の倉の神様が、
「ここにいては自分たちも蹴飛ばされる。炭焼き五郎は心の美しい働き者だ。あそこに行こうではないか」と話しているのを聞きます。

これは良い話を聞いた、と女は炭焼き五郎の小屋を訪ねました。
優しくされた彼女は「嫁にもらってくだされ」と自らプロポーズしました。
こうして夫婦になった二人が炭かまどの中を見ると、どのかまどにも黄金が入っているのです。
二人はたちまち長者となりました。

反対にだんだん貧乏になっていった前の夫は、偶然炭焼き五郎の家にやってきます。
その妻が自分の妻だったことに気付くと、自分を恥じて舌をかみ切って死んでしまいました。


彼女は、最初は父親の言うままに結婚してすごく受動的なのですが、自分の意志で離婚し、自らの足で夫となるべき人のもとを訪ね、プロポーズし、承諾させます。

この「受動性から能動性」への転換を、河合隼雄は「意志する女性」と定義しました。

日本人の自我というのは、受動的なところから生まれることが多いのではないかと考えられます。最初から主張せず、じっと耐えて、そして立ち上がるのです。

倉の神様というのは、無意識からの知恵と言えます。
女性の決意の背後に倉の神様のような次元の違う知恵があるというのが大事なところです。

また、この話には続きがあります。
死んだ前の夫にお供え物をして弔ってあげるのです。
一旦離婚したものを完全に切り捨てない。矛盾するものを置いておく
そのような広さも、日本人的と言えます。

 

「古事記」から分かる「日本の構造」

古事記にはさまざまな神様が登場します。
しかし、その中に特に何の力も働きも持たない「無為の神」がいるのです。


無為の神①
日本という国土を生み出したイザナミとイザナキは、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲというの三人の神を生みます。
アマテラスとスサノヲは高天原をめぐって対決し、アマテラスが天の岩戸に隠れてしまうなどのエピソードがあります。しかし、古事記にはツクヨミの話題がほとんどありません。

無為の神②
また、天地が始まった時の三神、タカミムスヒ、カミムスヒ、アメノミナカヌシの中で、アメノミナカヌシについては何も語られていません。

無為の神③
さらに、海幸彦、山幸彦でおなじみにホデリとホヲリの兄弟、ホスセリも、ほとんど登場しません。


三組のトリオの中心に、名ばかりで実態がない神=無為の神がいるのです。

日本神話は、中心に「空」が存在しているからこそ、相対立する二つのものが深刻な対立を回避するという構造になっています。これを「中空構造」といいます。

中空構造は、日本人の心や日本社会の特徴を表しているのではないでしょうか。

真逆となるのが一神教の世界です。
一神教の世界は、中心にある力や原理に従って統合されています。善悪が分かりやすく対立しています。

日本の場合は、全体の均衡がうまくとれることを重視します。そこにあるのは論理的整合性ではなく、美的な調和感覚なのです。

中空均衡構造の場合は、新しいものに対して、まず「受け入れる」ことから始めます。
まず受け入れたものは、もちろんそれまでの内容とは異質であるので、当初はギクシャクしますが、時間の経過と共に、全体的調和の中に組み込まれます。

日本古来に神道のようなものがあって、そこに仏教が入ってくるのですが、多少のもめごとのようなものはあっても、いつの間にか仏教と神道が混ざって受け入れられていきました。

その後キリスト教も入ってきましたが、何か新しく入ってきたものが完全に支配してしまうということがありません。

日本の構造には悪いところもあります。

境界があいまいだったり、新しいものが入ってきたときにちゃんと反発できなかったり。主張しないといけないところで、中心がないものだから主張できなかったり。

社会の構造として、いいところも悪いところも両方あるのです。